第二回 AYDEA Women’s 対談 ゲスト/ 川野作織 試練を乗り越えパワーに変える方法とは?

さまざまな分野で活躍している女性をゲストに迎えてAYDEA代表の松井綾香と対談を行うAYDEA Women’s対談。注目の第二回目はコーリン・ジャパン・トレーディングの川野作織社長。トライベッカに店舗を構えるKorinは日本製の包丁や器を扱う老舗店としてニューヨーカーに愛されています。1970年代後半にニューヨークに渡り、成功を納めた川野社長の道のりは決して平坦なものではなかったよう。日本人としてニューヨークで道を切り開いた川野社長に話を伺いました。

Text by Reiko Suga

Korinの川野作織社長(左)とAYDEA代表の松井綾香

松井:川野さん初めまして。よくお店には伺わせていただいているのですが、お会いできて嬉しいです。本日はどうぞよろしくお願いします。

川野:よろしくお願いします。若い方たちの力になるお話ができればいいのですが。

松井:ニューヨークはタフな街だと思いますが、1978年にこちらに移り住んだと伺いました。簡単に経緯を伺えますか?

川野:結婚式を終えた2ヶ月後の1978年に新婚旅行にくるような気持ちで主人と一緒にニューヨークに来ました。主人が音楽の勉強にニューヨークに一年行って来るからと言われて、別れるか、結婚するか、ということで結婚をして一緒に来たんです。ジーンズ2本とセーター、結婚のお祝い金をバックパックに詰めてニューヨークに来たことを覚えています。お祝い金はすぐになくなってしまいましたけど。

松井:78年当時のニューヨークは今とは全然違いますよね?

川野:とても怖い場所でただただいつもビクビクしていました。アジアンヘイトのようなものではなく、とにかく治安が悪い。来た当時は先輩日本人の方に「道を歩くときは真ん中を歩かないといけない」と教わりました。建物側を歩けば誰かに建物の中に引きずりこまれ、車道側を歩いていれば誰かに車の中に引きずりこまれる、ニューヨークはそんな場所でした。

ニューヨークに来てから半年も経たないうちに、お金がなくなって主人が何ヶ月か日本に出稼ぎに帰ってしまいました。ひとりぼっちになり、送金すると言っていたお金も来ないので、働くしかないということで日本食の「中川レストラン」のウェイトレスの公募を見つけて連絡をしたんです。面接に行ったら自分のビザが働けないビザだと知って、永住権を申請すると労働許可証が取れるので、永住権を取るようアドバイスをもらいました。2ヶ月ほどで労働許可証は取れたのですが、食べていくのに精一杯でした。

松井:ニューヨークに来た当時から、Korinのようなショップを作りたいというお考えがあったのでしょうか?

川野:特に深い考えはなかったです。ウェイトレスとして働いていましたが、1981年の年末年始にやっと一週間のお休みが取れたんです。永住権を申請してから半年ほど経って永住権が取れた時に、自分は何がしたいのか、何ができるのかをノートに書き出してみたんです。幼い頃から母に「できないことは忘れてできることに集中しなさい」と教えられていました。なので、いわゆる“自分の棚卸し”をしたんです。左には自分の長所ややりたいこと、右には得意じゃないこと。左側には「若い、健康」なんて書いていたら、自分ではすっかり忘れていたんですが、「日本の伝統文化を海外で教える」ということがあったんです。

確かに小学校の頃から小原流のいけばな、高校から弓道、着付け、お茶などを習って、いつか海外で教えたいと思っていましたが、ニューヨークに来てからは生活するのに必死で、そんな夢を思い出している暇さえなかったんですね。

海外移住は母親の夢であり、エールを送ってくれた絶対的な存在

松井:幼少期から日本の伝統文化に親しまれていたということですが、海外でそれを教えてみたいなと思ったキッカケは何だったのでしょう?

川野:母親の影響が強いですね。とにかく海外旅行好きな人で、1960年代後半に一人でJALパックを使って海外に行ってしまうような人でした。母は旧満州で生まれ育ち、最後の引揚船で帰って来たました。40歳になった母が「これで私の人生、日本と満州が半分になった」と言っていた言葉が当時15歳の私には忘れられない言葉でした。母には旧満州時代のお友達も日本にたくさんいて、「母の祖国は日本だけじゃないんだ」と思ったことを覚えています。「パパがリタイアしたらハワイに住みたい」としょっちゅう言っていて、一人で旅行に行ってはお土産を買って来てくれて、写真を見せてくれました。「日本だけが住む場所ではない」ということは母に教わったもので、外国がだんだん身近な存在になっていきました。余談ではありますが、主人と初めてデートしたときに「私は結婚なんかしないで海外に行って茶道や花道を教えるんだ」と話していたような生意気なことを言っていたみたいです笑。

日本の伝統文化を海外で教えるのが夢だったんでしょうね。大学では日米の心理の違いをテーマに研究をしたり、「日本の伝統文化が海外に渡ったらどうなるか?」をテーマに卒業論文を書いていました。

松井:Korinは始まるべくして始まったビジネスなんですね!

川野:レストランでまだウェイトレスをしている時にKorinをスタートしました。20代の私がアメリカの人たちにお茶やおはなを教えても誰も興味を持ってくれないと“The New York”に来て悟りました。実家の隣が有田焼を扱う陶器の専門商社で、小さい頃からお小遣いを叩いて、お隣やデパートの有田蚤の市などで器を買っていたんです。色々考えてニューヨークのレストラン向けに有田焼の販売をやりたいと閃いて、有田商事に日本に電話をかけました。有田商事が米軍基地の中にあるPXにディナーウエアを卸していたこともあり、有田USAがすでにあり、アメリカのデパートでも取り扱いがあったんです。日本に$2000-を送金し、有田の和食器を送ってもらいました。

在庫の有田焼をバックにした一枚。ぎゅっと握った拳からは決意が伺える。当時30歳

松井:すぐに有田焼は売れましたか?

川野:いえいえ、色々と苦労したんです。レストランに卸したいと思っていたのに家庭用の器だったので色々とクレームもありました。1983年5月にウェイトレスをやめてKORIN一本でやっていくことにしました。日本食のレストランを一件一件回ったのですが、当時はマンハッタンやニューヨーク近郊のの日本食レストランの数も少なかったのですぐにまわり終わってしまいました。どんどんと売れない在庫が溜まって次を買う資金も底をついてしまいました。

たまたまご縁があってフォートリーにあるショッピングモールにある友人のヘアサロンを訪れた時にサロンの隣に空き物件を見つけたんです。日系のお店もたくさん入っているモールだったので、ここで在庫の有田焼を売りたいと考えてオーナーに相談しました。交渉のすえ、土日の2日間だけ無料で貸してもらえることになり、当日までの1ヶ月間にフォートリーでビラ配りをしたら当日開店前から長蛇の列ができていたんです!その時は本当に嬉しかったですね。

松井:その後はビジネスは順調に進んで行ったのですか?

川野:山あり谷ありでした。最初はアメリカの東海岸からミッドウェストの都市のレストランにコールドコールをかける日々でした。事業が順調に動き出したと思ったら1991年の湾岸戦争で売り上げが激減しました。政治的な理由から日本人バッシングも起きていました。それまではアメリカにいる日系やアジア系レストランをターゲットにしていましたが、同じマーケットを狙っても立ち直るのに時間がかかるので、現地のマーケットを開拓し始めました。

やっぱり、アメリカにいるのだからアメリカにとって存在意義のある自分でありたい、母国の素晴らしいものをアメリカ人のお客様にも伝えたいと思うようになりました。

90年代後半、Korinのスタッフと一緒に

ローカリゼーションはしない、日本の伝統技術をありのままに伝えるのが私のパッション

松井:本格的な日本の器や包丁などをKORINさんでは取り扱っていますが、日本の伝統工芸をアメリカで広める際、ローカリゼーションが鍵を握ると思います。アメリカ市場にコミットするために苦労した点や、アメリカの人々に受け入れられるために行なっていることはありますか?

川野:1991年にシェフのジャン・ジョルジュさんが新しいフレンチ・タイレストランをオープンするとのことでKORINのスペシャルオーダーの器類を$50,000-分購入してくれたことがありました。その時、「どんなシェフでも包丁は使うな」と思い、アメリカのマーケット開拓のために包丁の取り扱いを始めました。日本の包丁と海外の包丁は厚みや刃の角度が違うので、海外仕様にしたほうがいいんじゃないか、というアドバイスをいただきました。でも、私のパッションは日本で使われている本物を海外にそのまま持っていくことだということがが分かったんです。だから海外仕様にするのは自分の意に反しているんです。

それでも実際にシェフに購入してもらった包丁はすぐにかけたりしてしまい、クレーム、返品の山でした。そこでパンフレットを作り、10名の有名シェフに日本の包丁の魅力を語ってもらったんです。当時すでにスターシェフだったジャン・ジョルジュさんは「日本の包丁はフェラーリのようだ」と語り、ローレン・グラさんは「日本の包丁を使いこなすにはシェフとして10年以上の経験は必要」など、日本の包丁の素晴らしさを話ていただきました。

ジャン・ジョルジュ レストランで包丁研ぎのデモンストレーションをした際の一枚

松井:素晴らしいですね!有名シェフにKorinの包丁の魅力を語って貰うとは消費者も納得すると思います。当時からインフルエンサーマーケティングをされていたんですね!器に関してもローカリゼーションはされていませんか?

川野:器も現地仕様にはしていません。ハイエンドなレストランのアクセントピースとして入り込めるように、隙間を狙っています。この仕事をするまでは、日本の伝統工芸に海外の皆さんを魅了する力が充分あることに気づいていなかったかもしれません。職人さん達が魂を込めて作り上げる、日本の伝統文化に基ずいた匠の技の道具類とその熱い想いを、使ってくださる皆さんにお伝え出来ることは私にとって最大の喜びです。

2004年にNOBUシェフの松久信幸氏がデザインしたテーブルウェアの発表会にて。メディア120名を招いて行われた

先が見えない、ピンチの時こそ乗り越えられる

松井:今後、ビジネスを立ち上げたいと思う女性やすでにビジネスをされている女性起業家の方たちに向けて、アメリカで自ら道を切り開いてきた川野さんからアドバイスはありますか?

川野:困難は人を賢くします。困難にぶつかったらもがいてもがいて、どう乗り越えるか考える、その連続でした。自分の中の眠れる獅子が目を覚まし、考え抜くとソリューションに行き着きます。それが一つ山を乗り越えられたという自信に繋がるんです。ピンチをチャンスに変えることですね。

リーマンショックが起こり、今回のコロナが起こり、人生、色々と大変なことは襲ってくるものです。でも、今までどんなことでも乗り越えられた自分がいるという自信が前よりも私を強くしています。困難が新しいチャレンジになるんです。その先には一回り大きくなった自分がいます。なので、皆さんも自分の可能性を信じてください。そしてどこに自分のパッションがあるのか、自分のパッションに沿って生きて行ってください。あとは、色々なメンターの方にアドバイスをいただいてください。そうすることで道が拓けます。

松井:ありがとうございました!私も女性起業家の一人としてとても力のある言葉をいただきました。

有名シェフに包丁の魅力を語っていただいた一冊
トライベッカにあるKorinのショップにはさまざまな包丁が販売されています

Saori Kawano(川野 作織)

東京都生まれ。中学校教員を経て1978年に来米。

82年「コーリン・ジャパニーズ・トレーディング」設立。

2005年に非営利法人「五絆(ゴハン)ソサエティー」設立。

07年に国連で「LeadershipAward」を受賞。

17年に外務大臣表彰を授与。